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【アラベスク】  第13章 夢と希望と未来



第2節 進路相談 [16]




「中絶をすれば母体にも負担が掛かるからでしょう?」
「それだけじゃないと思うわ。医者からも、中絶をした方がいいんじゃないか? 大丈夫だよ、こういうの慣れてるから、って甘い言葉も囁かれたのよ。でも詩織ちゃんは聞かなかったわ」
「ただ頑固なだけなんだと思いますけど」
 母の素性を聞かされても素直に同情のできない美鶴を苦笑し、綾子はトンとグラスをテーブルに置いた。
「詩織ちゃんはね、美鶴ちゃんを望んでいたと思うわ。望んで産めるほど、強い子だと思う」
 子供を望んで産む事が、なぜ強い事になるのだろう?
 理解できないと言いた気な美鶴。
「詩織ちゃんに何か夢があったのかどうか、それは知らない。でもね、詩織ちゃんは強い子よ」
 ゆるりと優しい笑顔で少女を見上げる女性。
「決して現実からは逃げない子よ。だからきっと、あなたが本当に進路で悩んでいるのなら、きっと詩織ちゃんなら協力してくれると思うわ。もし詩織ちゃんに夢や希望があったとしたならば、聞けばちゃんと教えてくれるはずよ」
 母の詩織を子どものように表現する綾子の顔を、美鶴は複雑な思いで見下ろした。





 居留守か? それとも本当に留守だったのか? おばさんはまさか居留守なんてしないだろうから、きっと本当にいなかったんだろうな? でも、美鶴はわからない。
 聡はブラブラと歩を進める。
 美鶴を疑いたくはないが、この寒空の下を美鶴がどこかへ出掛けるなんて、思えない。
 友達もいない、金がなくてガッチリ節約生活を余儀なくされている彼女に出掛ける場所なんて、あるとは思えない。
 じゃあ、やっぱり居留守?
 でも、用事があるから今日は駅舎には寄らないって言ってた。やっぱりどっかに行ってるのか?
 どこへ?
 悶々とした感情に(さいな)まれる。
 もう自宅だ。今日はコソコソと隠れる事もない。土曜の午後。晴れてはいるが風が体温を奪っていく。今年の冬は寒くなるらしい。暖冬続きの最近には珍しい事だとか。
 年内に雪でも降るか? まぁ降っても、まさか積もりはしないだろう。
 ぼんやりと考えながら玄関の扉を開け、ただいまの言葉も無しに家へ入った。その背中に声を掛けてきたのは、母親だった。
「どこへ行っていたの?」
「別に、散歩だよ」
「こんなに寒いのに?」
「晴れてるよ。気分転換だよ」
 適当に答えて階段に足をかける息子に、母の育代(いくよ)は胸の前で腕を組んだ。
「美鶴ちゃん、唐渓に通っているんですってね」
 聡の、足が止まった。
「知らなかったわ。あの美鶴ちゃんが唐渓なんかに通っていただなんて」
 聡と美鶴は、幼い頃はお隣さんだった。当然母の育代も美鶴を知っている。
 だが聡は、美鶴の存在を母には知らせていなかった。なぜだろうか? それは自分でもわからない。ただ何となく、今の母には言いたくないと思った。
 あの美鶴ちゃんが。
 その言葉が胸に引っかかり、聡は振り返った。
「どうして教えてくれなかったの? 美鶴ちゃんの事」
「別に」
 母と、視線がぶつかった。
「あなた、美鶴ちゃんの事が好きなの?」
 単刀直入に聞いてくる母に、一瞬躊躇った。
「何で?」
「そういう噂を聞いたから」
 そこで一拍置く。
「学校であなたが熱烈に女の子を追い回しているって変な噂。しかも相手は美鶴ちゃん」
 あれだけ校内で噂になっていれば、保護者の耳に入ってもおかしくはない。転入して九ヶ月も経っているのに知らなかった方がおかしいのかもしれない。唐渓の保護者の中では新参者の育代は、情報がまわってくるのも遅いという事か。
「噂だろ?」
 肯定もできず、だが明確に否定する事もできずに背を向ける息子の態度に、育代の視線が厳しくなる。
「美鶴ちゃんと関わるのは辞めなさいね」
 今度は勢いよく振り返る。だが何を言えばいいのかわからず、言葉が出ない。無言のまま見下ろしてくる息子の態度など予測していたのだろうか。育代は動揺もせずに相手を見返す。
「変な生徒と関わりをもって、ウチの体裁に変なイメージを付けられるのはゴメンだわ」
「変な生徒って何だよ?」
 言い返しながら、聡は心の中では納得していた。なぜ美鶴の存在を母には話さなかったのか。このような会話になる事が、わかっていたからだ。
 昔の母は違った。美鶴と遊ぶ事に眉をしかめるような母ではなかった。同じアパートに住むお隣さんだ。見下せるような立場でもなかった。
 だが今は違う。今の母は違う。
「変なイメージって、何だよ?」
 階段に乗せた足を下ろす。圧し掛かるように母を見下ろす。
「美鶴は美鶴だろ?」
「昔とは違うわ」
「何が違うんだよ?」
「聡、あなたはこの金本家の息子なの。チンケなサラリーマンの息子ではないのよ」
 チンケなサラリーマン。一度は愛し合って結婚した相手を、遠慮もなくそう言ってのける母の態度に腹が立つ。
「だから何だ? 俺は俺で、美鶴は美鶴だ」
「美鶴ちゃんのお母さん、今でも水商売をしているそうね」
「だから何だよ?」
「そんな家庭の子と付き合うのはやめて」
「何だよ、それ」
「いいからやめなさい。だいたい、あなたはこれから大学受験が待っているのよ。くだらない感情に振り回されて成績を落すなんてしたら、承知しないからね」
「それとこれとは関係ないだろう?」
「関係あるわ。聡、あなたはもう昔とは違うの。ちゃんとした税理士事務所を経営する金本家の息子という立場があるの。世間の目は体裁というものを背負っているのよ。美鶴ちゃんのところみたいに、勝手気ままにいい加減なその日暮らしをしている家庭とは違うのよ」
「美鶴の家はそんなんじゃねぇよっ!」
 何だよ、ちょっと資産のある男と結婚しかたらって、金持ち気取りやがってよ。だいたい、ウチは美鶴の家を見下せるほどのご立派な家なのかよ?
「何だよ、エラそうに。わかったような事言うなよ」
「それはこっちのセリフだわ」
 聡に詰め寄られても一歩もさがらない母親。逆に毅然と言い返す。
「聡こそ、わかったような事を言わないで。あなたのやっている事が原因で、家族が羞恥の噂に晒されるような事にもなるのよ。緩ちゃんにも迷惑がかかるわ。もうちょっと自分の行動に責任を持ってちょうだい。少なくとも、恥ずかしい噂が立つような行動は取らないで」
 美鶴と噂になるのは、恥ずかしい事なのか? 緩に迷惑が掛かる? 迷惑を掛けているのは緩の方ではないか。アイツは嘘をでっちあげて美鶴にくだらない濡れ衣を着せたんだぞ。それなのに、なぜ緩が庇われ、美鶴がこのように言われる?
 バラしてやろうか? 緩が部屋で何をしているのか、この場でぶちまけてやろうか?
 そんな聡の胸を、静かな声が叩く。

「人の弱みを握って脅すか。やり方が卑劣だな」

 ……………
 ここで緩の素性を暴露したところで、何の得にもならない。
 言い聞かせ、拳を握る。
「俺はそんな行動は取っていない」
「だったら、美鶴ちゃんとも関わりは持っていないのね?」
 無言で睨み返す息子。
「もし関わりを持っていたとしても、これからはやめてくれるのね?」
 聡はそのまま飛び出していた。母を突き飛ばし、玄関の扉を押し殴る。突き飛ばした母がどうなったかなど、聡にはどうでもよかった。倒れて頭でも打って怪我でもすればいい。そんな事すら考えてしまった。それほどに許せなかった。
 美鶴と付き合うのが、どうしていけないんだ? 美鶴を好きになるのがどうしていけないんだ?
 家を飛び出し、全速力で駆け抜けた。気付いた時には最寄の駅に来ていた。立ち止まり、乱れる呼吸を整えながら、それでも胸の蟠りは消えない。
 家には帰りたくない。母の顔など見たくない。だがどこへ?
 こんな事、前にもあったな?
 ふと思い出すのは、皺くちゃの笑顔。
 聡はそのまま電車に乗った。







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